春の厠

主にクラフィについて。その他も何か書きたいことがあれば記事にしていくつもりです。アイコンはユーザー、ブログ共にLpip様のイラストをお借りしています。

「理由の見えない自殺」について考える

 

 

 

こんにちは、和花です。

今日はゲームの話ではなく、以前他サイトで私が見てコメントしたニュースに関して感じたことを改めてまとめたいな、と思ったので書いていきます。

明るい話題ではないし自分語りが多い記事なので、そういうのが苦手な方はこの先は読まないようにしてください。

 

 

 

それは、2019年11月12日、三重県のとある高校で男子生徒が飛び降りて亡くなっているのが発見された、というニュースでした。学校という場所でこういった事故があった場合、真っ先に注目されるのはいじめの有無だと思います。実際にこの事件についてインターネットで検索してみたときに上位にきていた記事やブログは、「いじめの有無や家庭内トラブルの有無など事実確認をしっかりするべきだ」という結論のものがほとんどでした。

それが当たり前の反応だな、というのは確かに分かるんです。でも、今回の事故は少し様子が違った。遺書代わりのように、「いじめも家庭的な問題もなく、自分が分からなくなって、精神的に限界がきた」という書き込みがSNSに投稿されていたんです。

この言葉を見た途端、私はいてもたってもいられなくなり、初めてニュースアプリのコメント欄に書き込みをしました。

 

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字数制限があり書きたいことの全てを書くことができず、気持ちも揺れながら書いていたため、自分の言いたいことが読む人に伝わるかはかなり不安でした。伝わったとしても、全ての人に理解される経験や感情ではないことは百も承知でした。それでも、私が感情のままに投稿した書き込みに、幾つものコメントをしてくれた人たちがいました。

私の気持ちに賛同してくれる人、その気持ちは甘えだと批判してくれる人、自分には理解ができないと率直な感想を残してくれた人。色々な人がいました。

その全てが間違ってはいません。私の経験や過去の考え方に対するその人たちの感じ方は、そのまま価値観に直結するものだからです。

その中でも、印象に残ったコメントをいくつか取り上げてみたいと思います。


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こちらのお二人は、私と同じか似たような経験をしたことのある方々なのかもしれません。もしくは、同じような悩みに身近なところで触れたことがあったのでしょう。まさに、思い悩んでいた当時の私に聞かせてあげたいような言葉を残してくださいました。

中学生や高校生の頃は特に、勉強や部活が生活の大半を占める中で、常に順位付けをされて生きていました。すると、小学生の頃に感じたような「何でもできる感じ」や「何にでもなれる感じ」というのがするすると萎んで、世界どころか日本の中でも、はたまた学校の中でさえ自分は特別な存在になれないんだな、という「現実感」が顔を出してはどんどん頭を占拠していきます。そして、「特別になれない自分は必要ない」という考えが頭をよぎったりします(もちろん、そんなこと考えずに過ごす人も多いと思いますが……)。どれだけ両親や友人に愛されていても、「でもこの世界に自分は必要ないなあ」と思ってしまうんですね。「自分がいなくなっても、誰かがその場所を埋めてくれる」と(私の場合は、「こんなに両親に良くしてもらっているのに勉強や人付き合いが上手く出来なくて申し訳ない」と考えていました)。

でも、本当はそんなこと全くなくて。必要だとか必要じゃないとか、どうしてそんな極端な考えになっちゃうんだろう、と今なら思います。誰かに必要とされたい、というのは人間として当たり前の欲求ですが、それを全て自分の存在意義に直結させるのは安易というか、些か乱暴な気がします。きっとそれだけ視野や世界が狭くて、「自分の価値」を感じる場所が少なかったんでしょう。それはもっと身近で些細な場所にあるものなのに。

 


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例えば、こういうところ。笑いあえる友達がいると気づくこと。世界で一番なんかになれなくても、ほんの数人からでも評価されるもの(絵や小説、音楽など)があること。朝家を出るときの空気の匂いが好きだなあと気づくこと。欲しい服や漫画があること。もう本当に何でもいいんです。明日までのほんの少しの間でもいいから、延命できる理由があれば、それだけでもう少しでも生きていられるなら、何でもいいんです。

どうしても苦しいときはあります。そういう時は強い輝き以外見えなくなってしまうから、些細なことに気づけなくなってしまいます。でも足を止めて周りを見渡してみたら、ほんの小さなことが自分を助けてくれるかもしれません。

私の場合は、「悩みを聞こうとしてくれる先生がいること」「同じ悩みを真剣に考えている大人がいること」に気づいたことが、大きな助けになりました。「一人じゃない」と実感することが、悩みを抱える全ての人にとって大きな希望をもたらすことは間違いないと思います。

 

 

一方で、私の考えに「分からない」と素直な感想を漏らしてくれた方もいました。


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人によって何を悩みとするのかは違います。心の許容量も違います。だからこそ、私が感じたことも間違っていないし、この方の「分からない」も間違っていないのです。でも、お互いが理解できない考えを持っていると認めることは必要です。

 

「相手の立場になって考える」というのは小学生の頃に散々大人から言い聞かせられた言葉だと思いますが、これは使いどころを間違えると危険です。今回の記事の基軸でもある、「生きている意味」に関する悩みは特に、生活環境や境遇においてある程度満足している人から出ることも多いものです。人生や死生観について考えを巡らせる心のスペースがある、とも言えます(もちろん、死を考えるほどに生活的・環境的に追い詰められた人もたくさんいます)。

そうした背景を踏まえて、「もっと辛い人もいるんだから」と声をかけること。これが一番やってはいけないことです。極端な例を出すと、「仕事が上手くいかない」と悩んでいる人に対して、「でも貧しい国の子どもたちに比べればあなたの労働環境は恵まれてるよ」と言うことです。生まれも境遇も違う人を引き合いに出して(もしくは自分自身の立場と比較して自虐的に)相手を慰めようとすることは、全く心に響きません。なぜなら、どうしたって「あなたは私ではない」し「私はあなたではない」からです。つまり、ifの話をしていたって何も解決しないから、ですね。

 

 

それなら、「生きる意味」「自分の価値」について悩んでいる人にどうやって声をかければいいの?ということなのですが……。これが本当に難しい。

そういった悩みをずっと抱えてきた私でも、同じ悩みを抱える中高生(大人でも)が目の前にいても、どう声をかけていいか分からないと思います。なぜなら、この悩みはすごく抽象的で、人によって答えや救いが様々だからです。高校などで倫理の授業を受けた人は知っていると思いますが、昔の思想家や偉人たちも「なぜ生きるのか」について生涯をかけて考えたほどです。明確な答えがない問題なのです。

 

私の救いになったのは、同じように「生きるってどういうことだろう」と考えた人が書いた本を読んだことでした。新書の類に入る本だったと思います。「その題だけでまるまる一冊の本を書けてしまうくらい、私以上に悩んで悩んで悩んだ人がいるんだ」と知ったことが、私の決定的な救いになりました。

また、大学生になり、アルバイトを始めたこと。これも大きな転換点になりました。社会の中で誰かの役に立っている実感をすることが、勉強による順位や部活での出来不出来にばかり囚われていた私にとっては新鮮で嬉しい体験でした。お客様から目に見えて評価してもらいやすい接客業だったことも大きいかもしれません。「誰にでもできる仕事だけど、今ここで任されて頼られているのは自分だけだ」と考えられるようになりました。

そして、大学での「勉強」が高校までの勉強と大きく異なっていたこと。これは多くの人が感じることなんじゃないかと思います。正解不正解でばっさりと分けられ、順位ばかり気にしていた高校までの勉強と違い、学びたいことを追求でき、自分の血肉になる感覚がある勉強です。進学校の中でずっと比べ合いの勉強をしてきた私は、この気づきに大きな衝撃を受けました。はっきりとした正解のない問題に触れるのが好きだったのかもしれません。

 

 

私は最初に、「いてもたってもいられなくなった」と書きました。それは、この事故に触れた多くの人が「いじめや何かはっきりした理由があるはずだ」と断定的に考えていたことに何とも言えない気持ちになったからです。人間は何か大きな切欠がなければ絶対に自殺しないなんてことはありません。心の中に何かを抱え、どんどん大きくなっていき、どうしようもなくなってしまうことだってきっとあります。そして、それを解きほぐすのも、形のない、言葉にできない些細な出来事や心の動きであったりします。

だから、表に現れてこない。誰も気づかない。理解ができない。

私が悩んでいたとき、同じ悩みを抱えている人を見つけたくてインターネットで「自殺」「死にたい」「生きている意味」などと検索したことがありました。その結果見つけたブログや記事のほとんどが、「生きていれば必ず良いことがある」「時間が解決してくれることもある」といったことが書いてありました。当時の私は、「そんな綺麗事は聞きたくない」と思っていました。でも違ったんです。それは綺麗事でもなんでもなくて、年を重ねて色んな経験を経るにつれて、視野や世界が広がって、些細なことを幸せだと噛み締められるようになるっていうことだったんです。

でもどうしても、それを実感するには「今すぐ」は難しい。だから綺麗事だと感じて軽視してしまうんだと思います。当時の私と同じように、「大人は何も分かってくれない」「自分が子供だから、大人は綺麗事を聞かせればいいと思っている」と思っている人がいるかもしれません。でもそれは絶対に違います。大人は「それまでの人生」や「経験」を踏まえて、若年者に道を示してくれる存在です。彼らの言葉は、綺麗事と感じる言葉は、重みが全く違うということを前提にして聞いた方がいいものです。

もちろん、全てを鵜呑みにする必要はありません。なぜなら、10代は教え導いてくれる人たちの言葉を「自分に必要なもの」「必要でないもの」に分けて受け止める練習をする時間だからです。

今までずっとこんな調子で書いてきて今更ですが、私はなにも自殺してしまった彼の気持ちが全て分かるなんて、そんな傲慢なことを考えている訳ではありません。もしかしたら本当はいじめや家庭的な問題があって、周囲に心配をかけまいと「誰のせいでもない」という言葉を残したのかもしれません。それでも、彼の残した言葉に覚えがある一人として、「こういう経験をした」ということを書きたかった。同じ経験をしたことのない人にも知ってほしかった。

こんなこじんまりとしたブログに辿り着いて、この記事を読んでくれる人は多くはないでしょう。それでも、読んでくれた人たちの「自分とは違う考えへの気づき」になれたらいいな、と思いました。

 

私は、今でも「どうして生きるのか」という悩みへの答えは出せていません。でも、生きたい理由はたくさん見つけることができました。今持っている一番長い「理由」は、好きな作家さんである重松清さんの心理描写を実感できる歳になりたい、というものです(女なので全く同じ気持ちを辿ることは難しそうですが笑)。

 

 

それでは、長い長い自分語りを最後まで読んでくださった皆さん。

お付き合い頂きありがとうございました。